名作「曽根崎心中」へ独自の視点で切り込んだ本
「心中への招待状 華麗なる恋愛死の世界」小林恭三(文春新書)
心中と聞けば私が連想するのが近松門左衛門の数々の作品、特に「曽根崎心中」は強烈に訴えかけてきます。映画化もされており宇崎竜童、梶芽衣子が主演した「曽根崎心中」(1978年)は、私の中で日本映画のベスト作品のひとつです。初めてその映画を観た時は大きく心を揺さぶられ、以後、文楽、歌舞伎と「曽根崎心中」を追っかけて見たことがあります。
そんな近松門左衛門の「曽根崎心中」ですが、まず読んでいて、なるほどそうなのかも知れないなと思わせるのが、九平次についての言及です。この物語においては、九平次は徳兵衛を騙すことによって窮地に追い込んでいくわけですから、お初・徳兵衛の心中は九平次が原因のように感じてしまい憎々しく描かれているのが正当な解釈といえます。
が、著者の小林氏はそうではなく『感度の悪い観客のため、演劇上の必然性を用意しただけ』と九平次の役割についてそう主張するのです。『近松にとって九平次などどうでもよかった』のであり、故に『九平次がどうしょうもない薄っぺらなキャラクター』になっていると。
さらには、『癌というべき存在』とか、『―文楽の枠を超えて、日本文化における巨大な悪性腫瘍』とまでも言ってのけます。それはもうボロカスな評価なわけです。さらに時の演劇人たちは、そんな九平次の扱いに困り「曽根崎心中」の改変を重ね、およそ当初に近松が意図したところから遠く離れてしまっているかのような主旨のことまで述べているのです。
お初・徳兵衛の心中は二人にとっては必然的な行為であって、そこに九平次の入り込む余地はないと。私はそれを読んで、そこまで言うか?とも感じたのですが、一方で頷ける所もあり、九平次の存在は、心中に至る都合のいい引き金的な役割であったのかも知れないと。
さらに小林氏はこの心中の底流に流れているのはエロティシズムであると論じます。お初に隙間見えるエロティックな部分はさておき、心中そのものには『今この瞬間の、燃えるような愛』『それを永続きさせるためには、この愛が褪せないうちに死ぬしかなかった』という魂の流れ。
小林氏の文章を引用すれば、『心中をうながす「はやくはやく、殺して殺して」というお初の叫びが、エクスタシーを得ようとする女の叫び声に重なる……他にも断末魔のお初が両手をひきつらせるように伸ばしているところや、「刳りとほし、刳りとほす」といった執拗な責め文句は、性交に没頭している男女の姿を彷彿とさせます。そしてその中でももっとも露骨なのは、「我とても後れふか、息は一度に引き取らん」です。つまり徳兵衛はいわゆる「一緒に行く」をしようとしているのです。最後ともに果てることで、心中を性交に重ねようとしているのです。よく性交によるエクスタシーを「小さな死」と表現しますが、その論法に従えば、一緒に死を迎えることはこれ以上ありえない「大きなエクスタシー」ということになるでしょう。』
つまり心中とは形を変えた性行為であるというわけです。小林氏の論を進めれば極上の性行為のために心中したのだと、その考えを飛躍させることもできます。性行為におけるエクスタシー=死のエクスタシー=心中とまで結びつけてしまうのは、ちょっと飛躍しすぎかなと思いながらも、そうした見方も、まあ、面白いなと思ったのでしたが。「曽根崎心中」は、当時恋愛なんていう概念はあったのか、なかったのかわかりませんが、お初は19歳、徳兵衛25歳、若いお互いが強烈に引き合った物語であることは間違いないのです。(『』部分、「心中への招待状 華麗なる恋愛死の世界」小林恭三(文春新書)から引用)